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​天台山諸道場

天台山には、天台大師の十二道場と呼ばれる寺があった。この十二道場は、天台大師自ら造営したもの、大師が先人旧跡を修復したもの、後世の弟子が大師にあやかって建設した道場合わせて十二箇寺である。天台山には十二道場以外にも寺院があって、かつては七十二箇寺を数えたようだが、現在は九箇寺である。今はその旧跡も不明なものが多い。

[天台智者十二道場]

      1、国清寺(山麗 天台山総道場)

    2、修禅寺(大慈寺遺跡)

  3、真覚寺(智者塔院)

  4、華頂寺(華頂道場)

  5、方広寺(石梁道場、中方広寺、下方広寺、上方広寺)

  6、高明寺(幽渓道場)

  7、西竹院(遺跡不明)

  8、太平寺(遺跡)

  9、清心寺(遺跡)

  10、天封寺(遺跡)

    11、九明寺(遺跡、山外)

    12、禅林寺(遺跡不明、山外)

石梁飛瀑(方広寺)

 

 ①飛瀑各様 

石梁は青色で長さ七丈(21メートル)・上幅二尺(60センチ)、龍の形だが亀の背をしている。度胸のある者は渡れる。その南の端に中方広寺があり、北の端には紫銅亭仏龕が置かれている。毎朝、僧侶が石梁を渡って箇之仏龕に香を供えるである。

民間では、この石梁は仙人が造ったという、愉快な話を伝える。

石梁の奇は種々である。渓之上下には八つの瀑があり、その品性がそれぞれ違う瀑之群都なっている。石梁飛瀑の上50メートルの両渓合流のところに、二つの瀑がある。落差は両方とも10メートルある、一つは馬の尾に似ているので"馬尾瀑"または"神龍揮瀑"と呼ぶ。形は奇で明快な瀑である。もう一つは凹凸の多い岩を滑り落ち水花となっているので、"天女散華"という。活発な個性の瀑である。 "

 ②五百羅漢道場 

「仙山仙境、仙人多く留まる」と之言葉通り、天台山は"五百羅漢道場"都も言われるが、五百羅漢はこの石梁画本拠地である。五百羅漢の信仰はかなり古くからあり、孫綽(そんしゃく)の「天台山賦」にも「応真」として、すでに五百羅漢が詠われている。現在の五百羅漢像は方広寺に銅龕と小像500体の二群あり、国清寺にも大像500体一群あります。

 ③方広寺 

方広寺は、天台大師が天台教学を高揚した"十二道場"の一つであり、有名な景勝地の一つである。

​ 中方広寺は、石梁之横岩上にあり、山際に大雄宝殿がある。入り口の石橋を渡ると雲華亭に入る。ここに明代の五百羅漢の銅龕がある。亭は二層で、その上層より石梁飛瀑と下方広寺前景が俯瞰できる。ここから下の飛瀑を見ると、思わず足がすくむ絶景の場所である。

 下方広寺は、石梁飛瀑之底部横にあり、寺前の川岸に立てば飛瀑之勇姿が見える。各殿各楼は庭院道廊でつながっており、周囲は松柏竹林に囲まれ、下方広寺は中方広寺と相い互い高下の借景になっている。ここにも、金色の羅漢小像500体を修復し安置する羅漢堂がある。

華頂帰雲(華頂寺)

華頂峰は、天台山の主峰(1138メートル)であり、周囲を群山が囲んでいる。華頂山頂は、年間8~9割は雲に覆われており、晴れる日は珍しい。華頂峰に立つと、雲が遠くから近寄り、低きから登り、足下から天空に舞い上がる。この時、体が天庭にいるかのように思われる。"華頂帰雲"とは、これを言うのである。早朝、東の海を眺めると、一輪の火球が一片の波間より昇り出て来る。日の出の奇観である。

 ①華頂寺 

華頂峰の下3キロに「華頂寺」がある。または「華頂円学道場」ともいう。このあたり一帯は華頂森林公園で、門前の樹齢800年の杉は、華頂寺の歴史を物語っているように思える。天台大師は華頂降魔の頃、ここまで下って食事したと言われる場所である。

 ②七十二茅棚 

​華頂寺の周囲の山間や渓谷には、別に著名な「七十二茅棚(草庵)」が隠れされていた。太白書堂・薬師庵・長春庵・東茅棚・西茅棚などである。これらの茅棚は、天台大師の降魔得道にちなむ修禅者の道場であり、法要の日には、上山した参拝客の休憩所ともなった。茅棚は、およそ木石建築で、野生茅草を屋根とし、毎年一回取り替えていた。厚さは数10センチで、冬暖夏涼で高山の環境に適したものだった。

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仏隴聖地

 

天台山の聖地の中の聖地、それが仏隴である。「隴」は峰の意味で、現在の真覚寺と東対の尾根がそれである。古くから「この山に遊ぶ者は、多く仏像を見る」といわれた場所である。仏像とは、無数にある自然の露出大立岩のことだろう。

 ①修禅寺(大慈寺遺跡) 

修禅寺は、天台大師が38歳で初めて来山した1年目に建て始まった道場で、茅庵だった。大師在山12年間は、ほぼ修禅寺が活動の中心であり、天台教学を高揚した主要道場である。修禅寺の東側300メートルに、智者大師の講経台である「智者大師説法所」と刻まれた大丸岩が残っているが、その周囲には群石が林立している。これを人は「経を聞く羅漢群像」と呼んでいる。

​紀元804年十月、日本天台宗の38歳の最澄和尚はこの仏隴に登った、80余巻の仏典を与えられ、天台山を巡礼した。

 ②真覚寺(智者塔院) 

天台智者大師は生前、自分の死後はこの地に葬るよう遺言され、滅後、遺言に従ってここに埋蔵された。寺内に智者大師の「智者肉身塔」があることから、「智者塔院」と呼ばれ。日本の最澄和尚は、ここで「日本国求法斎文」を読み、謝恩の法要を行った。約50年後日本の円珍も、270年後の成尋和尚もここで感激の涙をぬぐいながら大師像を拝し、読経礼拝したことが日記に記されている。

 ③高明寺(幽渓道場) 

天台智者大師が仏隴の説法台で、「浄名経」を講義していた時、風が経典を空高く吹き上げて経典がヒラヒラと空を飛んだ。大師は追いかけ五里(3キロ)行ったところで、風が止み経典が落ちてきた。大師はそこに霊異を感じ、またそこは山岳秀発で清渓は心を映すので、浄居に高明寺と名付けた。

​この高明寺も、天台十二道場の一つである。

国清寺

 

国清寺は、中国でも著名な古刹の一つである。国際的にも有名な道場であり、参拝者は最も多い。国清寺は天台山の南山麓にあり、天台山最大の寺院で、天台山への登山口にもなっており、五峰に囲まれ冬暖夏涼で、台風の危険からも守られている。

寺前には双澗回瀾(二つの川が合流して流出)し、寺内の殿宇は軒を連ねて35を数え、仏像は荘厳され、香火・梵音は絶えず、所蔵宝物も豊富であり、日本・韓国天台宗の祖庭、天台宗の総道場である。

  ①歴史  

国清寺は智顗によって建設がはじめられたが、その没後、開皇18年(598年)に完成した。はじめの名前は天台寺と言ったが、のちに国清寺に名を改めた。会昌の廃仏でいったん廃止されたが、大中5年(851年)に再建された。

国清寺は隋以来たびたび天災・人災に遭い、何度も再建されている。現在の建築は雍正年間以降に再建されたものである。文化大革命でも大きく破壊されたが、周恩来の命令によって再建された。

  ②建築  

国清寺の多くの建築物は新しいものであるが、寺の外に隋代のものと言われる六面九層の塔(単に「隋塔」と呼ばれる)が残っている。

文化大革命後の修復の目的で、北京の故宮博物院などから多くの文物を国清寺に移したため、境内の仏像などはきわめて貴重なものが含まれている。

天文学者としても有名な僧一行がこの寺で活動したため、境内に一行法師の碑や塔がある。

  ③文化  

国清寺の僧として寒山拾得が有名である。この2人に豊干(ぶかん)をあわせて国清三聖と称する。

  ④日本との関係 

国清寺は日本の仏教の歴史上も重要な寺院であり、最澄道邃から教えを受けたほか、円珍円載重源栄西成尋俊芿らが訪れている。

文化大革命の破壊から復興したばかりの1975年に日本の天台訪中団が国清寺を訪れている。

境内には、日本の出資で作られた法華経の経幢などがある。

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